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鎌倉の歴史を知る

query_builder 2021/06/05
EDITORIAL
山と海に囲まれ、鶴岡八幡宮や大仏などの歴史的な建造物が数多く現存する古都、鎌倉。日本が誇る観光名所のひとつです。

鶴岡八幡宮や小町通りなどの鎌倉駅付近の観光スポットから、由比ガ浜や七里ガ浜などサーファーや海好きにも愛される海岸沿い、スラムダンクの踏切で有名な鎌倉高校前、そして観音でお馴染みの大船エリアまでが鎌倉市となっており、名所の数々は一日では回りきれないほど。

そんな鎌倉はどのようにして日本屈指の観光地となっていったのか、鎌倉幕府とはどのようなものであったのか、鎌倉の大仏はなぜ建造されたのかなど、鎌倉の歴史を改めて知るべく勉強がてらこちらに残そうと思います。


鎌倉の歴史と観光地としての成り立ち

鎌倉の歴史 観光地としての成り立ち
鎌倉の歴史のスタートは鎌倉幕府の頃からだと思いがちですが、実は今から一万年前以上の旧石器時代には人類が住んでいたとされています。
旧石器時代の石器が鎌倉市大船の常楽寺付近から見つかっており、そのほか縄文時代や弥生時代の遺跡も確認されていることから、鎌倉の地には大昔から継続的に人類が生活していた事がわかっています。

鎌倉が最盛期を迎えたのは、鎌倉時代の北条政権の時代。当時は3万人近くが住んでいたとされています。
その後幕府が滅亡し、室町時代に都が京都へ移ると年々活気を失い、16世紀あたりには、農業や漁業を中心とした村となりました。
しかし、17世紀に水戸黄門でお馴染みの徳川光圀が鎌倉を訪れた時の記録を残した新編鎌倉志で脚光を浴びたことで、江戸からの観光客が増えていき、活気を取り戻していきました。
江戸時代には“観光地・鎌倉”としての認識が世間に広がり、現在に至ります。


鎌倉が日本の中心となった時代、鎌倉幕府の成り立ち

鎌倉幕府の成り立ち
鎌倉幕府は、1192年に源頼朝によって設立された日本初の武家政権のことを指します。
1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府のフレーズでお馴染みですね。近年の研究では1185年に設立したという説が有力となり、1185(いいはこ)作ろう鎌倉幕府の語呂合わせで覚えているそうです。

まず、幕府とは何かということろから解説いたします。幕府とは、征夷大将軍が政治を行う場所を指します。征夷大将軍は朝廷から認められた役職で、天皇に代わって軍事を行うリーダーのことです。
鎌倉時代や江戸時代など、当時の征夷大将軍が政治を行っていた場所を幕府と呼び、鎌倉時代では源頼朝が征夷大将軍(リーダー)となって鎌倉の地で政治的実権を握っていたことから鎌倉幕府と呼ばれています。
初代征夷大将軍の坂上田村麻呂で有名かと思いますが、天皇家と敵対していた蝦夷地を開拓し、鎮圧するための軍事的リーダーとしての役職がスタートで、源頼朝の代ではじめて政治的な実権を担うかたちの役職となりました。


鎌倉幕府は日本初の武家政権

鎌倉時代までは天皇家による統治が中心でしたが、鎌倉幕府設立とともに、武士が中心となって政治を行う武家政権が誕生しました。武士による政治、すなわち武家政権は江戸時代末期の大政奉還がなされるときまで約700年も続き、その第一人者とも言えるのが源頼朝が作った鎌倉幕府です。
源頼朝は武士達のリーダーとして、鎌倉を本拠地として政治をスタートさせます。


源頼朝はなぜ鎌倉で政治を行ったのか

これにはいくつかの理由があります。
頼朝の父が戦に敗れ、幼いころから伊豆へ幽閉されていた頼朝は、関東の武士の強さを目の当たりにして、関係性も深めていったことから、武士たちが活躍する政治的な場所として朝廷のある京都から離れた場所に本拠地を構える事が理想であったことが考えられます。
また、鎌倉の鶴岡八幡宮は頼朝の祖先である源頼義が源氏の氏神として由比ガ浜付近に祀ったことが始まりで、頼朝はその後に現在の地に移したとされています。鎌倉は源氏にとっても特別な場所であることがわかります。

別の理由としては、他の勢力が攻め入っても、攻めづらい地形であることです。
鎌倉は、北、東、西は山に囲まれ、南には相模湾が広がっており、敵が攻め辛い地形であったとされています。
現に、鎌倉には切り通し(大勢で通れない抜け道のようなもの)と呼ばれる道を作られ、敵の侵入があっても大勢で攻め入れないようにしていたとされています。この切り通しを鎌倉に繋がる街道とつなげていく事で、交易などのルートも確保していきました。
また、鎌倉は東海道に近いこともあり、商業や軍事の点からも交流地点として栄えていました。
いまも現存する滑川は、当時の鎌倉住民とも密接な関係にあり、生活用水や運搬にも便利であったことから、鎌倉を選んだともいわれています。


鎌倉幕府の繁栄と衰退

源頼朝は鎌倉を政治の中心として、各機関を鎌倉に集約させます。将軍である頼朝に仕えるエリート達を御家人と呼び、頼朝は御家人に対して、土地の支配を保証したり、戦の功績に応じて土地を与えたりする御恩を行いました。御家人は戦があれば命がけで戦い、朝廷や幕府の警護にもあたる奉公を行う事で、主従関係が結ばれていました。これを封建制度と呼びます。この封建制度と呼ばれる社会制度を軸とした、武士達による政治がスタートします。それまでの皇族が中心の華やかな時代とは違う、質実剛健な時代の始まりであると言えます。

鎌倉時代では、京都と鎌倉を結ぶ東海道をはじめとする道路が発達していきました。鋳物や養蚕、漆器、和紙など様々なものがそれぞれの村で生産され、海産物や畑の作物、加工食品が盛んに作られ、それらが流通し人や物の移動が活発になる事で、この道路が大きく発達していきました。

武士が中心となった鎌倉時代には、モンゴル帝国の侵略、俗にいう元寇が2度も起こり、超巨大帝国の侵略により窮地にたたされましたが、神風が吹いたという伝説のおかげもあり、元寇を退け、武士たちは日本の領土を守りました。
ですが、この元寇による恩賞が不十分で、対外的な侵略のため奪い取る土地がなく幕府としては十分な恩賞を与えることが出来ず、不満が募っていったようです。
更には、正弘の変で、北条氏は自分たちの味方についていた有力御家人の足利尊氏に裏切られるなど、幕府は力を失くし、鎌倉幕府が滅亡していきます。こうして1333年(元弘3)に約150年の歴史に幕を閉じ、新たな時代へと突入していきます。


鎌倉仏教の流行

鎌倉時代には様々な仏教が流行しました。
戦争も多く、大飢饉も起こった背景から、人々は心のよりどころを求めていました。
元来より仏教の文化は日本へ入ってきていましたが、当時の仏教は政治と癒着していて庶民に良い印象を与えていなかったことと、学問中心の修行を必要としたことから庶民には身近なものではありませんでした。
しかし、鎌倉時代は鎌倉新仏教という親しみやすい教えが普及していきました。様々な宗派が生まれていき、新しい文化が誕生します。

法然(ほうねん):浄土宗(じょうどしゅう)
栄西(えいさい):臨済宗(りんざいしゅう)
親鸞(しんらん):浄土真宗(じょうどしんしゅう)
道元(どうげん):曹洞宗(そうとうしゅう)
日蓮(にちれん):日蓮宗(にちれんしゅう)
一遍(いっぺん):時宗

上記は、念仏の様に唱えてテストの為に覚えた方も多いと思いますし、いまも多くの日本人が上記の宗派、もしくはここから更に派生した宗派を信仰しているかと思います。

鎌倉新仏教の特徴は、とにかく唱えることやひたすら座禅を組むことなどを重視したシンプルなものが多く、偶像崇拝などの仏教美術にはあまり価値を見出しませんでした。
鎌倉新仏教が生まれたことで、法然を開祖とする浄土宗の仏教寺院で鎌倉大仏がある高徳院をはじめとする多くのお寺が造られ、趣のある街の基礎となっています。

以上、鎌倉について簡単にまとめてみました。鎌倉で史跡を巡る中で、時代背景を知っておくもっと面白く、新しい発見ができると思います。


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